書くことの楽しみ
今日、紹介する「スタタリング・ナウ」2004.2.21 NO.114 の巻頭言のタイトルは、「書くことの楽しみ」です。書き出しに、毎日毎日文章を書いている、とありますが、20年経った今でも、それはほぼ変わりません。メモ程度のものも含めると今も毎日何か書いています。ノートや紙に書いていたこともあったと思いますが、今はほぼパソコン相手です。
2004年の春、オーストラリアのパースで開かれる第7回世界大会に出発する前日に書いていたらしい巻頭言です。国際大会のことも、第6回ことば文学賞のことも、懐かしく思い出しました。
書くことの楽しみ
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二
毎日毎日文章を書いている。完成させた文章だけではなく、メモ程度のものも含めれば、おそらく書かない日はないだろう。それも、吃音に関わることがほとんどで、自分の本質に関わるテーマだから、時に重く苦しい。
文章を書きながら、怒りや悲しみがわき上がってくることがある。そして、書きながらそれが徐々に収まっていくプロセスはうれしいが、収まった後にまた新たな怒りや悲しみがわいてくる。書くことは自分を生きることであり、今の自分の歩みに立ち会うことでもある。まだ私は、文章を書くことの中に、軽やかな楽しみを見い出せない。それは、私にとっての吃音は、大きな大きなテーマであり続けるからだろう。
かつて私は、吃音に深く悩み、吃音を治そうと闘いを挑み、他者を自分をひどく傷つけて生きてきた。その苦しみの中から、吃音は闘うべき相手ではなく、和解し、手をつなぎ、共に人生を生きるまたとない伴侶だと思うようになった。
その吃音を、敵視し、ねじ伏せ、自分の管理下に置くことをすすめる臨床家は少なくない。吃音に取り組む当事者はどうか。明日から出かけるオーストラリアのパースで開かれる、吃音国際大会は、1986年、私が大会会長として第1回の大会を開いて7回目になる。ここまで続き、これからも続いていくことは大変にうれしいことなのだが、国際大会のプログラムを見て、少し不満をもった。私たちの海外への発信が不十分なこともあるのだが、セルフヘルプグループにつながる人たちの意識も、吃音はあくまで闘う相手なのだ。
第1回で私は大会宣言の中に、「吃音研究者、臨床家、吃音者がそれぞれの立場を尊重し、互いの研究、実践、体験に耳を傾けながら議論をし、解決の方向を見い出そう」と対等な立場に立って、「吃音に取り組もう」という文言を入れた。しかし、世界の動きは、まだ専門家主導で動いているとしか思えないようなプログラムになっていた。吃音の悩みからの解き放ちは、吃音の治療改善にしかないと考えているからなのだろうか。これまで以上に世界への発信の必要性を感じたのだった。
今回で6回になる、どもる人のセルフヘルプグループ、大阪スタタリングプロジェクトの「ことば文学賞」。今回は、15編と応募も多く、作品の内容の傾向が変わってきたと感じた。
「ことば文学賞」の入賞選考は、朝日新聞の学芸部の文学担当として、長年作家の文学作品に触れ、ご自身も書き続けて来られた高橋徹さんにお任せしている。毎回私たちの作品を丁寧に読み、大阪吃音教室の「文章教室」で講評して下さる。
どもる人の苦しみ、悩みから解放されていく喜びを常に共感をもって読み取って下さる。私たちが信頼している選者であり、長い間私たちの書くことを支えて下さってきた師匠でもある。安心して、選考は全てお任せしている。これまでは、吃音の悩みや苦しみと真っ正面から向き合い、そこから新たな生き方を探るような作品が選ばれることが多かった。ところが、今回の入賞作3編は、これまでの選考基準とは趣が違うように私には感じられた。文章を書く楽しさや喜びがある作品だ。
どもる私たちが、長年「書くこと」をとても大切にして、取り組んできたのには、次のような意味合いがある。
*自分のために書く
日記に自分の苦悩を書くことから始まって、私は、読み手を意識して書くことで、自分を見つめ直すことができた。
*後に続く人のためになれば、と考えて書く
吃音にとらわれた苦しみから解放されていくプロセスを書くことは、後輩に自分のしてきた過ちを繰り返して欲しくないための発信となると思った。
*書くこと自体が喜びであり楽しみとして書く
この三つを繰り返しながら、書いていくのだろうが、私は、自分を見つめるためと、後に続く人への発信の意味で書くことが多い。高橋さんは「ことば文学賞」の選考を通して、書くこと自体を楽しむ書き方もすばらしいのだよと、私に言って下さっているような気がする。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/03/26