どもる子どもの支援につながる評価とは 3

 岐阜で開催された第3回臨床家のための吃音講習会で、僕が話した講座内容を紹介してきました。今、読んでも、全く同感ですと言える内容です。大勢の参加者に向けて、一生懸命話していることが、文字からも伝わってきます。今日で最後です。 

どもる子どもの支援につながる評価とは 
                       日本吃音臨床研究会 伊藤伸二

子どもにどのような支援ができるか
 これからは、契約の社会だ。子どもがどうしたいのか、まず尋ねてみることだ。子どもは、「どもりを治したい、治してほしい」と言うかもしれない。そう言えば、「それは無理だ」と言うしかない。できることとできないことがある。「子どものニーズに合わせなければならない、親のニーズに応えなければならない」とよく言われるが、吃音に悩んできた人や子どもや親が、吃音を治したいと思うのは自然な気持ちだ。だから、それに寄り添って、「そうだよね、どもりを治したいよね」とそこに止まっていたとしたら、それは専門家とは言えないのではないか。効果があるかないか分からないままに、「ゆっくりと話す」しかない治療法を導入することの功罪を考えなくてはならない。薬に必ず副作用があるように、吃音を治す試みにも、副作用があると私は考えている。「どもりを治したいというあなたの気持ちはとってもよく分かる。でも、今、どもりを治す確実な治療法はない。少なくとも私には治せない。でも、だからといって、何もできないというわけではない。一緒にあなたのどもりについて考えたり、共に取り組むことはたくさんある。少なくとも一緒に悩み、考え、あなたと共に歩いていくことはできる」とは言える。子どもが「吃音と上手につきあう」ための支援は、たくさんある。それを考えていくのが専門家であり、臨床家だと思う。
 子どものニーズに寄り添うというのは、今流行の、きれいなことばだが、できないことを請け負うことになってしまう。ウェンデル・ジョンソンにも、チャールズ・ヴァンライパーにもできなかった、吃音を治すということを、自信をもって治すことができると言い切れるだろうか。日本よりはるかに言語病理学の研究臨床がなされ、スピーチセラピストの養成も大学院のレベルでなされ、臨床システムがそれなりに確立されているアメリカのスピーチセラピストの9割以上の人が吃音を苦手としていると、アメリカの吃音臨床の実情報告があった。
 治せないにしても、吃音を改善するということはできる。どもらずに話すことを目指す「流暢に話す」ことは難しくても、「流暢にどもる」ならできると考える人がいる。アイオワ学派の人たちが、流暢にどもる、楽にどもるを提唱し始めて50年以上にもなるが、臨床家が吃音を苦手にしているのはどういうことだろう。「流暢にどもる」が実際に指導できていれば、苦手意識などもつ必要はない。理論的には、「流暢にどもる」は分かっても、それを実際に指導することはとても難しいということではないか。どもる人本人にとっても、「流暢にどもる」はとても難しいことなのだ。
 吃音が軽くなったり、楽にどもる人がいることは事実だ。私も30歳をすぎてから、どもり方がずいぶんと変わった。吃音検査をすれば、以前よりは軽減されていることになるのだろう。しかし、私はその状態を「治った。軽くなった」とは言わない。「どもり方が変わった」と言い、それは現在も変化し続けている。その変化は自然治癒とも言えるもので、いつか気がついたら前よりも話しやすくなっていたということで、治そうとして、努力の結果得られたものではない。そして、私は55歳をすぎてからまた、再び21歳のころのどもり方に戻りつつある。吃音検査をすれば悪化をしたことになる。このように吃音症状が変化しても、吃音についての考え方は変わらないから、吃音に悩むことはなく、吃音が日常生活に影響することはない。
 自然治癒力という言い方は適切ではないかもしれないが、それに似たようなものだといえるだろう。アイオワ学派の「流暢にどもる」を吃音治療法だと考えるところに無理があるが、「吃音と上手につき合う」という枠組みの中で、吃音への対処・対策と考えて、活用することはできる。その程度のもので、結果として「流暢にどもる」ようになることはある。
 吃音症状の消失、改善を治療の目的にしていたら、臨床家の苦手意識は消えないだろう。しかし、日本のことばの教室の教師や臨床家の中には、吃音を苦手とは思わず、吃音の子どもと向き合うのは楽しいし、好きだという人がいる。この講習会に参加している人々の中にもきっとたくさんいる。それは、吃音症状に向き合うのではなく、子どもに向き合っているからだ。どもりの子とつき合うのが好き、という人たちが増えてきたら、日本の吃音の臨床を世界に発信できるのではないだろうか。

臨床家とは
 どもる子ども、どもる人とは何かについて、私はこう定義している。
 「人間関係やからだやことば、コミュニケーション、生きることについて、吃音を通して考える、テーマを与えられた人のことである」
 どもる子どもに関わる臨床家は、世間ではマイナス、欠点だと思われているこの吃音に対して取り組もうとしている子どもを支援しようとする人だと言える。子どものテーマを共に生きるのが、臨床家の役割ではないだろうか。
 弱さ、不安、世間でマイナスだと思われているものを持っていること、それは決して悪いことではなく、それを持っているが故に考えたり悩んだり、解決に向けて取り組んだりできる。作家の五木寛之さんも、「不安の力」という本などを書き、「諦めて生きる」ことを説いている。これは、仏教文化の中から出てきたものだ。アメリカにはない、日本の文化の中から、吃音の臨床を考える時期にきていると私は思う。

吃音評価の今後に向けて
 吃音症状に焦点をあてた吃音評価ではなく、子どもの学校や家庭地域での日常生活に焦点をあてる。子どもが吃音についてどう思っているのか。子どもがどういうことで生活の苦戦をしているのか。どういうときに喜びや楽しみを感じているかを知ること。評価のための評価ではなく、それをもとにして、それを題材にして、子どもと話し合いができ、一緒に考え、一緒に取り組むことができるもの。それが評価といえば評価なのだ。
 吃音親子サマーキャンプでキャンプが始まって直後と、3日目の終わってからの吃音に対する意識を尋ねると、大きな変化がみられる。両親のための吃音相談会で、相談会が始まる前に、親に「吃音へのとらわれ度」をチェックしてもらい、3時間ほどの情報提供や体験を語る相談会が終了した後、再度チェックを試みると親の吃音へのとらわれ度に変化が見られる。子どもの吃音をできれば治したいという思いは、変わらないけれど、将来に対する不安や就職の項目などは大きく変わる。
 「吃音へのとらわれ度」「日常生活の回避度」「人間関係の開放度」の3つから構成されている私たちの吃音チェックは、その名称を含めて問題点はあるだろう。大人用であったために、「吃音へのとらわれ度」という表現を使ったが、この表現自体も変えていく必要がある。問題点はあるが、一応学童期の子ども用に作り替えてみた。
 実際にどもる子どもと試みてみようという方がおられたら、ことばの教室で実施してみてほしい。実施してみての問題点、項目の変更などを集めて、検討し、次回の臨床家のための講習会でよりよいものを再度提案したい。多くの人々と一緒によりよいものを作り上げていければと願っている。臨床家のための吃音講習会の次回の開催地が島根県に決まった。宇野正一さんが集計して下さることになった。実施してみたデータと、意見や提案をお寄せいただきたい。できるだけ多くのことばの教室で取り組んでいただくことで、問題点などがより明らかになるだろうと思う。
 やってみようと思われる方がおられましたら、日本吃音臨床研究会事務局まで請求下さい。子ども用のチェックリストと資料をお送りします。
 ☆この文章は、2003年に書かれたものですが、吃音チェックリストは2024年現在もお送りします。ご請求ください。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/03/13

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