新しい地点に立って
『スタタリング・ナウ』100号記念にいただいたたくさんのメッセージは、100号だけには収まらず、次の101号にも掲載されていました。メッセージを寄せてくださった方の中には、もう亡くなられた方もおられます。いただいたことばの数々、しっかり受け止め、大切にしようと、新たに心に刻んでいます。2003年1月18日発行の101号から、まず巻頭言を紹介します。
新しい地点に立って
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二
「吃音はどう治すかではなくて、どう生きるかの問題につきる」として、私が『吃音を治す努力の否定』を提起したのは、1974年のことだから、もうすでに30年近くなる。ことばをかえれば、「吃音を否定するのをやめよう」を、いろいろに形を変えて言い続けてきたことになる。
この主張は当時、吃音の研究者や臨床家だけでなく、吃音に悩む人々からも批判を受けた。それは、治るはずのものが、あるいは治る可能性のある吃音が、治す努力を否定することで、治らなくてもいいのか。吃音を治したいと切実に願うどもる人や子ども、親の気持ちに応えていないのではないかとの批判だった。
30年たって、状況は変わったのだろうか。医療・科学・技術の目覚ましい発展の中で、吃音は、ひとり取り残されたかのように、新しく明らかになったことはほとんどなく、有効な治療法も開発されていない。
それでもインターネット上の吃音情報は、「吃音は治る。治すべきだ」の主張がほとんどで、『どもりは必ず治る』本も最近相次いで出版されている。先だって、旅先で立ち寄ったある小さな町の図書館に『どもりは必ず治せる』というような題の本が1冊だけあった。その本には、寄贈の挨拶文がはさんであった。高額の吃音を治す器具を売るための宣伝として、この本は全国の全ての図書館に寄贈されているのだろうか。吃音は治る、吃音を否定的にとらえる情報は、以前よりも氾濫しているのかもしれない。
このような従来の「吃音は治る・治すべき」が今もそれなりの説得力をもち続けるのは、その前提である、「どもりは悪いもの、劣ったもの、恥ずかしいもの」などの認識が、なかなか変わらないからだろう。それは、現実に吃音による悩みが深いことも要因のひとつだろうが、誤った情報による影響も少なくない。
かつての私たちは、治るという情報しか与えられずに、吃音は治すべきで、治るものだと信じて治す努力をしてきた。吃音は原因も分からず、治療法がなく、治りにくいものだという情報があれば、あれほど、吃音にこだわらなかったのではないかと考えると、これまでとは違う視点に立った、精度の高い真実の情報を提供しなければならないのだろう。また、長年の活動の中から吃音は、恥ずかしいものでも、悪いものでもなく、自らの力で十分向き合い、つきあうことのできるものだと気づいていった経緯を考えると、私たちは、自らの体験をもっと語らなくてはならない。その中で、私たちの主張は、説得力をもつのではないか。
30年前、治す努力を続けた人がどうなり、反対に治す努力を否定した人はどうなったが検証できれば、興味深い結果が出たことだろう。試験官の中での実験ではないだけに、科学的な実証は難しいが、多くのどもる人と出会ってきた私の推論では、治す努力をした人も、努力をしなかった人も、30年の人生を積み重ねたのであり、その中での吃音そのものの変化にはあまり差がないのではないか。吃音が治ったり、軽くなったりするのはその人の治すための努力よりも、別の要素が働く、つまり結果として自然に起こることが多いからだ。一方、吃音を治すことにこだわって生きたかどうかは、その人生に影響を与えるだろうと思う。私たちの周りの、吃音を治す努力を否定して、その努力を自分らしく生きることに振り向けた大勢の人達は、時に、吃音に悩むことはあっても、自分で納得できる人生を歩んでいる。これらの事実も明らかにしていかなくてはならない。
私たちの主張に共感し、支えて下さる方々が随分と増えた。今回100号の記念に寄せて下さった多くの方々のメッセージのひとつひとつが大変ありがたくうれしい。今後、私たちが歩む方向を示唆して下さっている。これらを励ましとし受け止め、学びながら、また新たな一歩を踏み出したい。それは、ゼロからのスタートではない。多くの積み重ねと、多くの仲間に恵まれている。「どもってもいい」をもう少し、理論的に丁寧に説明し、実践し、さらに理論的に説明するという作業が必要なのだろう。新しい地点にようやく立てたと言うべきかもしれない。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/01/21