鴻上尚史さんとの濃密な時間 2

 これまで吃音ショートコースのゲストとして来ていただいた講師は幅広く、ジャンルも多岐にわたりますが、どの方にもひとりひとり印象に残るエピソードがあります。鴻上さんのサンドイッチの話はおもしろく、20年以上経った今でも、サンドイッチを食べるたびに「このサンドイッチはうまいねえ」と、鴻上さんのことば、言い回しが口をついて出ます。こんな些細なこと、誰も覚えていないだろうなと思いつつ、僕はひとりであのときのことを思い出しているのです。

鴻上さん、登場
 さあ、今年のショートコースのメインが始まる。まずは伊藤が1998年の青森での日本デザイン会議での鴻上さんとの出会いを語り、講師紹介に代えた。
 人なつっこい顔の鴻上さんの登場である。鴻上さんは、“こえ”と“からだ”で“表現”にたどりつけたらいいかな、と話し始められた。表現をその人のレベルで楽しんでもらえたらいいとおっしゃった。
 「やりますか。まずからだを動かしてみましょう」との呼びかけに、椅子を部屋の隅に寄せて真ん中が広くなった。ゆっくり自分のからだと対話をしながらのストレッチから始まった。魔法をかけられたように、その後は、鴻上さんのリードで参加者が笑いの中で、声を出し、からだを使い、どんどん動いていく。
 たくさんしたワークの中からいくつか紹介しよう。

◇みんなが椅子に座る。空いている椅子がひとつある。鬼がひとりいて、その空いたいすに鬼は座りたいと思っている。椅子に座っているみんなは、鬼に座らせないように空いた椅子に移動していく。鬼はひざの間にハンカチをはさんで移動する。
◇みんな椅子に座る。鬼がひとりいて、その鬼は、例えば「吃音ショートコースに参加するため、新幹線に乗って来た人」など、自分のことを言って、そのことばに合う人が、移動しているときに空いた椅子に座る。遅れて椅子に座れなかった人が次の鬼になる。フルーツバスケットと呼ばれているゲームだが、自分に関することしか言ってはいけないというところがとても新鮮で、おもしろかった。
◇ウィンク殺人事件。りっとう山荘がどか雪にまみれて外に出られなくなる。救助は来ない。この中に殺人者が複数いるらしい。殺人者はウィンクをして殺す。みんなは三々五々歩いて、ウィンクされたら、心の中で10数えながら歩いた後で、なるべく大袈裟に「ワー!!、ギャー!!」と叫んで死ぬ。すぐに叫んだらこの人が殺人者だと分かってしまうからだ。歩く人は、ただ殺されるのはくやしいので、複数いる殺人者を探す。すれ違いざまに小さい声で「あんたでしょ」と言う。もしそうだったら、殺人者は正直に「ばれてしまいました」と言って死ぬ。殺人者でない人を間違って「殺人者でしょ」と言った人は、とても失礼なことを言ったので、10数えて「ワー!!、ギャー!!」と叫んで、自殺する。殺人者は全員を殺すことが目的。みんなは殺人者をみつけることが命を守ることにつながる。まれに殺人者同士がウィンクをすることがあるので、そのときは先にウィンクした方が勝ち。「殺人者なのに殺されました」と言って死ぬ。
 鴻上さんが殺人者を決めた後は、一切喋ってはいけない。このりっとう山荘に響くのは、殺されたときの叫び声だけ。歩き初めてすぐ、誰かの「ギャー」という叫び声がする。えっ、誰?わあ、何?という声があちこちで聞かれた。死体の山ができ、歩いている人が少なくなっていく。おもしろい、おもしろい。

鴻上さんも輪の中に
 午後10時からのコミュニティアワーには、鴻上さんも入って下さって、昨晩にも増して盛り上がっていた。鴻上さんが、用意していたお菓子を足りないところに配って歩いたり、部屋の隅っこにぽつんといる人に声をかけ、話の輪の中に入れるように心くばりして下さっている。さりげないその行動がなんとも言えず温かい。若者たちとの恋愛談義は白熱していた。講師がこうして参加者の中に入って夜遅くまで付き合って下さるところに、吃音ショートコースのアットホームな良さがあると私は思っている。「夜は強いけど、朝は…」とおっしゃっていた鴻上さん。大丈夫かなあと思いながら、気の弱い私は、なかなかお開きの声がかけられなかった。意を決して、声をかけたのは、午前2時前だった。

英語との格闘はどもりに似て
 翌日、もう最終日である。散歩に出掛けた人もいるようだが、全体的にとても静か。みんな起きてるのかなと思うほどだった。
 午前は、鴻上さんと伊藤の対談。爆笑につぐ爆笑。楽しい話の中に、吃音に悩む人たちへの優しい共感と、応援が込められていた。どもる人が何とかヒントをつかみたいとする質問のひとつひとつにも、丁寧に答えて下さる鴻上さんの誠実さがあふれている時間だった。すらすらとではなく、考え考えしながら、役に立ちそうな例をいくつも出して下さる。その話し方がとても心地いい。今、まとめるためにテープを聞いてみると、伊藤伸二のどもりが移っていくのか、鴻上さんもどもっていると思われるところが何カ所もあるのが楽しい。
 対談は、2002年度の年報で紹介する予定である。時間がなく、鴻上さんの校閲をうけないままに、整理はされていないままだが、予告編だと許していただいて、ひとつだけ紹介しよう。

 『伊藤さんと最初にお会いしたのが、イギリスから帰った後だったというのは、すごくよかったと思うんです。イギリス留学体験は、『ロンドンデイズ』という本を書いて、小学館から出しているので、もしよかったら買って読んで下さい。昨日は、夜遅くまで、いろんな人のどもりの話を聞いて、どもりのいろいろ事象とか、自分の名前を言えなくて、笑いが起きたとかいうのは、英語を喋れない僕が、英語圏で経験してきたこととよく似ていると思いました。
 アメリカ人もイギリス人も英語をしゃべる国の人は、世界中の人間が英語をしゃべっているので、しゃべれて当然だと思う。あちらの旅番組で世界中を旅するレポーターたちは、現地の人に英語で何のためらいもなく話しかけ、通じないと、「何だよ」という顔をする。「世界言語である英語を、お前、しゃべれないのかい」という顔で。その確信に満ちた優越意識っていうのは何だろうと思う。
 そういう前提がある英語世界で学ぶということは、僕はどもらないけれど、どもる人が自己紹介で起きてきたのと同じようなことが起こるわけですね。
 自己紹介をすることで笑いが起きる。自己紹介が終わった後ですごくみじめな気持ちになって、今後集団の中に入れるのかどうかに悩むというようなことを僕は全く経験をしたことがないまま、イギリスに行った。
 欧米の人たちは、ことばが稚拙だと脳も稚拙だと思う。だから、多分、どもってうまく言えないということは、知能や人格も一段低くみられてしまうこともあるのでしょう。
 僕なんかも、授業でぱっと当てられたときに、どう言えばいいのか、もちろん分かっているんだけど、英語でそれをどう表現していいのかがよく分からない。そうすると、困る。発音にしても、日本人ですから、LとRの違いとか、BとVの違いで苦労する。ある時、「日本語は、全部のことばに母音がついているんですよ」と言おうとした。母音は、バウエルという、Vなんですけど、Bの方は内臓(腸)という意味がある。そうすると、「日本語には全部内臓がついている」ということになる。当然、笑いが起こる。なんで笑われているか、言った本人には分からない。宿舎に帰って辞書をひいて、ああなるほど、Vは母音だけど、Bは内臓なんだなと、後で分かる。
 最初の話に戻りますが、僕は、生きていく中のルールとして、暗黒面にフォーカスを当てないんだということを常に思っています。暗黒面の力はとにかく強大なので、そっちにフォーカスを当て始めると、ほんとにその世界の住人になってしまうからです。笑われるんだけども、何か言わなきゃいけないという、闘いをずっと1年繰り広げてきて、結局、ネイティブの英語のスピーカーじゃない分、ずっと違和感は残る。どんなに流暢になりかけたといっても、なりかけてもなかったですけど、違和感が残る。そのことばに裏切られたり、ことばにつきあったりしながら、でもそれしか手段がないわけだからどうしても言語とつきあっていかなきゃいけない。いろんなテクニックを駆使しながら生き延び、闘ってイギリスから帰ってきた。
 その後だったので、青森での日本デザイン会議のシンポジウムの時の、伊藤さんの話がすごくよく分かったわけです。イギリスに行く前にお会いしてたら、「ああなるほど、多分そういうことがあるんですね」、という他人事の世界で終わってたと思うんです。
 例えばね、みんながサンドイッチをもって、昼食で、庭に集まったりするときは、もう気持ちは戦場なわけですよ。昼休みなんだけど、僕にとっては一番闘いの時間。だって、授業中は黙ってれば、待ってればいいわけですから、それこそ、分かっててもうまく英語で言えないときは、「I don’t know」とかさ、「I have no idea」とか言っときゃ済むわけだけど、昼休みとかはやっぱりサンドイッチを買うときから、格闘が始まるわけです。「くそっ、ここで、ここでひとりで隅っこで食うのもくやしいな」と思う。しかし、コーヒーとサンドイッチをもって、中庭に行くと、そこには英語の速射砲の機関銃の嵐が待っている。
 「どうしよう」。自分で体調とか整えて、トイレの中で、例えば、「オレは疲れているけど、君はどう?」とか、想定問答をつくって、「よし!」と思って行く。休みでみんなは、にこにこしているのに、僕ひとりがこんないきり立った目付きで行くとやっぱり、そこでもうおかしいわけだから、「気持ちは、はいはい、もっと楽に、楽に」とか自分に言い聞かせながら、せりふをコントロールしながら、座るわけです。
 その昼休みの格闘の中から編み出したのは、とにかく初期のうちに、一回声を出すことで参加しておけばいい、と。後半は、だんだん話は複雑になって、何言っているのか分からなくなるわけですから、そこはもうにこにこしておくしかない。ずうっとにこにこしていると、本当に一言も口をきかない奴になるので、最初のうちが勝負です。最初の会話の3分、「みんな集まったねえ」。「いい天気だねえ」。「今日のサンドイッチはうまいねえ」と、一言でいい。一言でも発しておくと、周りには、一応あいつはこの輪で楽しんでいるんじゃないのという印象を与える。
 とにかく、最初にいく。なにかで出遅れてしまって、もう輪が始まってしまって、3分くらいたったとしたら、しょうがないから、今日はもうあきらめて、目立たない所で一人で食おう、と。次の日は、早めに中庭で待ってよう』

 このサンドイッチの話は、どもる人が自己紹介をして、笑われたときのことと似ているなあと思う。授業中は黙っていればいいけれど、休み時間や、あるいは遠足や運動会などみんなが楽しんでいるとき、どうその場を過ごせばいいのか悩んだのを思い出した人も多かっただろう。
 その他、鴻上さんのロンドンでの留学体験は、ことばという共通の悩みをもつ者の体験としてうなずきながら、笑いながら、聞くことができた。(「スタタリング・ナウ」 2002.11.27 NO.99)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/12/30

Follow me!