障害を生きる2 病気や障害とどう向き合うか~河辺美智子さんの体験から~
大阪セルフヘルプ支援センターで、長く一緒に活動を続けてきた河辺美智子さん。生まれたときから心臓の障害をもち、手術をして心臓病からは解放されるが、その後、ヘルペス脳炎になり、その後遺症とつきあうことができるようになった頃、今度は乳癌を患います。この体験の中から得られた《病気や障害とどう向き合うか》というお話は、強烈で、引き付けられます。特に、言語聴覚士から言語指導を受けて反発する話は、私たちに共通するものを感じます。
NPO法人大阪スタタリングプロジェクトの大阪吃音教室で話していただいたものを紹介します。
病気や障害とどう向き合うか
河辺美智子(61歳)
心臓の障害と出産
私は、生まれたときから心臓の障害者でした。当時まだ心臓外科という領域はなく・心臓治療そのものもなかった時代です。心臓の何の障害か、病名も知らされませんでした。家で生まれたら分からなかったのが、病院で、心臓の音がおかしいことが発見されました。親は女の子が生まれたことを本当に喜んでくれたのですが、「この子どもは心臓の障害者だから、3歳くらいまで生きてみないと分かりません。かぜをひいただけでも死ぬと思って下さい」と医師から言われて、親は育てるのが大変だったろうと思います。
心臓病をもちながら生活をするとは、外見上は皆さんには分からないでしょう。皆さんがゆったりとした動作や、ゆっくりと歩いている時、私は常に階段を上ったり走りながら生活しているようなものです。
心臓中核欠損で・心臓手術を受ける48歳まで、私は心臓の障害をもって生きてきました。
医学の進歩で私の20代くらいから東京女子医大と阪大だけで心臓の手術ができるようになりました。
私が23歳で妊娠したとき・医師からは「中絶しなさい」と言われました。「心臓がこんなに悪い人が赤ちゃんを産むなんて。産めたとしても育てていくことが大変だ。また産まれても死ぬかもしれない」「どうしても生みたい」というと、「心臓の手術をしてからでないと絶対にだめだ」と言われました。
心臓病の専門医の所へ相談に行ったら、成功の確立は五分五分だと言われました。ものすごい量の輸血をしないといけないとも。まだ、心臓手術は研究の途上だったのです。
私は、心臓手術を断りました。そして、ひとりじゃなくて、二人、三人、四人も子どもを産んだんです。30代の初めも、風邪をひいて、病院に行ったら心臓の手術をすすめられました。成功率は7割ということでしたが、私は、下の子が高校を卒業するまでは絶対手術を受けないことに決めていました。
心臓手術
48歳の時、国立循環器センターから電話がかかってきました。決まっていた人がキャンセルして、手術スケジュールがあいたのでしょう。これもひとつの縁かなあと、これまで拒み続けていた心臓手術を受けることにしました。これまで待ったお陰で、成功率は、98%になっていました。輸血しないで、自分の血液をとっておいて、手術をしました。2%に入らなくて、私の手術は成功し、ものすごく元気になりました。
子どものころからの障害者から、初めて健常者になったことになります。階段を上がることがこんなに楽なのか、赤ちゃんを抱っこする時あれだけしんどかったのに、大きい子を抱っこしたって何の問題もない。本当にびっくりしました。健常者になって初めて、あんなに悪い心臓でよくここまで生きてきたと思いました。手術したあとは呼吸する度に痛みが残ったので、仕事もやめ、何もしなくなってしまいました。
それもやっと元気になってきたので、何かしたいと思ったときに、大阪セルフヘルプ支援センターの前身、設立準備委員会と出会ったのです。
セルフヘルプ
心臓手術を急に受けることになったとき、友だちが見舞いにきてくれます。「こんな有名なところで手術できてよかったなあ、うれしいでしょう」と言ってくれる。どんなに勧められても頑なに拒み続けてきた手術を今やっとする決意をしたばかりです。手術を受ける本人は、そんなどころじゃない。見舞いの人は花を飾って、満足して帰られるけれど、私は見舞い客がくる度に落ち込んでしまいます。手術の前日です。見舞い客が来て、落ち込んだときに、手術受けて何週間かたっていた4人部屋の同室の人が一緒に泣いてくれました。私よりもっと泣いてくれました。
「私なんかあなたよりもっともっと落ち込んでいたのよ。あんな見舞いの人なんか、病院に入れんかったらいいのにね」
明日、手術というときに、同じ心臓手術の体験者の、生きたことばに、本当にほっとした思いでした。この人たちに出会えてよかったと思いました。それが縁で、セルフヘルプグループを支援しようというところに入っていったのです。伊藤伸二さんに出会ったのもその活動でです。セルフヘルプグループのセミナーや合宿や月に一度の例会や電話相談など、水を得た魚のように楽しく活動をしました。それは、私のひとつの生き甲斐になりました。(「スタタリング・ナウ」2002.6.15 NO.94)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/11/09